「死は本当に不幸なのか」「死の先にある天国に目を向ける」
「死は本当に不幸なのか」
11月はキリスト教では「死者の月」と言われ、「死」「死者」ということを聞いた時には「私には死ぬという大切な仕事が残されている」という作家の三浦綾子さんの言葉を思い出します。
その三浦綾子さんは「死」について、夫の光世さんと以下のような会話をしています。
ある時、光世さんが1枚のハガキを手に持って、綾子さんに「こんなうまい字を書く人間が……ばかなことを書いて来て、大した字だよ、これは」とぶつぶつ言ったそうです。綾子さんが「なあに?何が書いてあるの」と訊くと、「これだけの知性のある、書家のような字を書きながら……。まあみてごらん」とそのハガキを手渡してくれました。「これが不幸の手紙と言って東京から順に送られ、私の家に着いた死神です。カナダの人が出したそうですが、あなたがとめると不幸が訪れます。…○○さんが五年間とめて死にました。66時間内に文章を変えずに出して下さい。私が(以下スタンプで幾字か消えている)ばかばかしいと思いますがお許し下さい」という内容のはがきを見せました。
これがいわゆる「不幸の手紙」で、綾子さんはハガキを読んだ後に、光世さんに「ね、死が不幸だと思いこむということは問題ね」と言うと、夫は「全くだ。死が不幸だと考えるこということに問題がある」という返答に大きな喜びを感じたそうです。
三浦綾子さんは「明治時代のキリスト信者は、死んだ時にも『おめでとう』と言ったものだと伝え聞いている。死は天国への凱旋である。キリストに在る者には、死は必ずしも不幸ではない筈なのだ」と語っています。
「死というものは真の幸せを開く鍵」
作曲家のモーツァルトは「死についてまったく恐れてなかった」と言われていて、そのことについて、彼は1787年の春、病に倒れた父レーオポルト宛ての手紙に次のように書いています。
「死は(厳密に考えますと)、僕たちの生の真の最終目的なのですから、僕は数年この方、この、人間にとって真実で最上の友と非常に親しくなっています。ですから、死の姿は恐ろしいものであるどころか、むしろ心を安らかにし、慰めてくれるものなのです!そして神さまが僕に、死というものが、われわれの真の幸せを開く鍵であると知る機会(おわかりですね)を賜ったことに、感謝しております。僕は毎晩ベッドに横たわる時に――若い身なのに――明日はもう生きていないのではないかと考えるのです。しかし誰も僕のことを陰気であるとか、悲しげだとかは言えないでしょう」
「死もまた美しい」
京都に他教派の若い伝道師がいて、その伝道師は若い時に弟を病気で亡くしたことで、苦しんで、苦しんでマザー・テレサに手紙を出したことがあったそうです。驚くべきことにマザー・テレサから「あなたの弟さんの死を美しく受け止めなさったことをうれしく思います。でも、ひとつ大切なことは、もし、『死』を通してでなければ、永遠の世界に入ることができないと思えば、死もまた美しいと言わねばなりません」という手紙の返事が来たそうです。
「死の先にある天国に目を向ける」
聖書においては「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント15:55-56)と記され、使徒聖パウロは「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:2)と語っています。
また「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21:3-4)と記されています。
私たちはそのような「神が人と共に住」む「心を安らか」で「慰めてくれる」「天国」、さらに近親者を含めた逝去された方々と「再会」できる「天国」の世界が用意されていますので、私たちは「死」を恐れず、「死」の先にある「天国」に目を向けて、希望を持ちながら生きていきたいと思います。
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