「最も必要とされているものは何か」 「主なる神様こそ希望」
「最も必要とされているものは何か」
ラジオ牧師として活躍した川越勝牧師がフィリピンの大学院で勉強をしていた時、宣教師が体験談から話された話は忘れられず、その後の川越牧師にとって非常に大切な点を教えてもらった契機になったそうです。
ある時、アジアのある国の難民キャンプで長い間働いている宣教師が川越勝牧師の学んでいる大学院に来て、その宣教師はほとんどの(牧師である)学生に向かって、「今、難民キャンプで最も必要とされているものは何か?」という質問をしました。
川越勝牧師も心の中で、「難民キャンプだから、安全な住まいなのか?いや、毎日の食事だろうか?それとも、手に入れにくい医薬品だろうか?温かい毛布だろうか?それともお金?」といろいろと考えました。
川越牧師はこれだけ挙げればどれか当たるだろうと思っていたのですが、見事にはずれ、最も必要とされるものは「希望」だったそうです。
難民キャンプ生活という「希望」のない日々は、人々から笑顔を奪ってしまい、彼らは誰に会っても笑わず、宣教師はその体験から、希望の必要を切々と訴えたそうです。
そこで川越勝牧師は「これから先自分がどうなるのかわからず、十分な物がない生活では、希望が持てないのでしょう。その難民キャンプの話をうかがって、笑顔の大切さ、それに大きく関係する希望の大切さをハッキリ知ることができました」と述べています。
「『希望』のない日々は、人々から笑顔を奪ってしま」というように、「希望」と「笑顔」は直結していることがわかります。
川越勝牧師は「さて、あなたの生活には笑顔があるでしょうか。ただ単にニコニコしているだけではなく、目が輝いた、希望を持った笑顔でしょうか」と問われています。
私たちの生活はどうでしょうか。希望を持った生活、「目が輝いた、希望を持った笑顔」で生活をしているでしょうか。
「主なる神様こそ希望」
聖書において、「希望」を置いている対象は「もの」や「人」ではなく、「主なる神」様であるとしています。
「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおい
ている」(詩編62:6)、「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは
若いときからあなたに依り頼み・・・」(詩編71:5)、「主よ、わたしは
今、何に希望を置くことができよう あなたこそわたしの希望」(詩編39:
8 『日本聖公会祈祷書 詩編』)、「主よ、あなたはわたしの希望 わたし
の神がわたしにこたえてくださる」(詩編38:16 『日本聖公会祈祷書
詩編』)と記されているからです。
「希望の(源である)神様を信じる者は決して失望することはない」
また「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)と記されています。
「希望の源である神」の「源である」という言葉は原文にはなく、直訳すれば「希望の神」ですが、神様は私たちにとって「希望の神」そのもので、「これ(即ち、主イエス・キリスト)を信じる者は、決して失望することはない」(Ⅰペテロの手紙2:6)、新改訳では「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」のです。
同じようにローマの信徒への手紙10章11節でも「聖書は私たちに、『キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない』と教えています」(『 リビング・バイブル訳』)、さらに詩編9編19節においても「貧しい人が永遠に忘れられ 苦しむ人の希望が滅びることは決してない」(『聖書協会共同訳』)と記されています。
「希望の(源である)神」様に頼ると「笑い」「笑顔」が与えられる
「希望の(源である)神」様に頼ると、「神はわたしに笑いをお与えになった」(創世記21:6)、また「わたしの心は喜び、魂は踊ります」(詩編16:9)というように「笑い」や「喜び」から出てくる「笑顔」が与えられることが示されています。
私たちは希望を持った生活を送り、「目が輝いた、希望を持った笑顔」になるためには「神にのみ、わたしは希望をおいている」「あなたこそわたしの希望」という「希望の(源である)神」である救い主イエス様に依(よ)りむことにあるということを魂に刻みたいと思います。
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