「ドアが閉じる時、もう一つのドアが開く」「戸を閉ざされた」後に神様の「救い」が始まる

   「神様はドアを閉めたとしても

 

有名な映画「サウンド・オブ・ミュージック」修道女を目指していたマリアが登場します。

マリアは自由奔放(ほんぽう)な性格のために修道院長から一度修道院を去って、自分自身を見つめ直すことを勧められますが、しかし、マリアは「修道院こそが私の居場所です」と最初は(こば)みます。  

結局、修道院長からトラップ大佐の邸宅(ていたく)で家庭教師をすることを命じられ、彼女は悩みながらもトラップ大佐の家へ向かうことになりました。

修道院を出る前にマリアは「神様はドアを閉めたとしても、必ずどこかの窓を開けておいてくださる」(「When the Lord closes a door, somewhere he opens a window.吹き替えでは「道はきっとどこかに通じるわ」となっていて、また他の映画訳で「神様は耐えられない試練(しれん)は与えない」と訳されている)と自分自身に言い聞かせました。

その後、マリアはトラップ大佐宅で家庭教師を送る中で紆余曲折(うよきょくせつ)がありながらも、最終的にトラップ家と共に成長していき、皆が幸せな生活を送ることになって、正に「神がドアを閉める時、神は窓を開ける」(『ブラジルのことわざ』)ということが実現したのです。


「ドアが閉じる時、もう一つのドアが開く」

 

 同じように科学者で電話機の発明者のグラハム・ベルも「扉が一つ閉まると必ず別の扉が開くのです。ただ、閉まった扉をいつまでも悔しそうに見つめていて、開いた扉に気づかない、そういう人が多いのです」と語っています。

 ヘレン・ケラーも「一つの幸せのドアが閉じる時、もう一つのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない」という言葉を残しています。

英国の殉教者のジョン・ブラッドフォードはリュウマチを(わずら)い、失望落胆していました。しかし、悪臭のする、汚い地下(ろう)に投げ込まれ、そこから生きて出てくることが出来ないとわかったとき、「私がこの(ろう)に閉じ込められ、試練を耐えて以来ずっと、リュウマチの痛みもなく、失望落胆の気持ちもなくなっていた」と言っています。

この実話は正に「ドアが閉じる時、もう一つのドアが開く」ことを象徴しているのではないでしょうか。

 

「戸を閉ざされた」後に「救い」が始まる

 

聖書では主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた(創世記7:16)と記されています。この背景にはノアの生きた旧約聖書時代、地上で悪がはびこったことで神様は大洪水によって地上を滅ぼそうと考えられ、神様は善人のノアたちに箱舟を造るよう命じられ、彼らの命を救おうとされたという出来事があります。

神様は大洪水が起こる前にノアたちが乗った箱舟の一番、浸水しやすい戸を外側からしっかりと御手をもって閉ざし、ノアたちを安全にして、大洪水から救いました。

新約聖書時代になってイエス様は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)と語られています。

マルティン・ルターは上述の聖書の箇所をあなたがキリストを探しているのではなく、キリストがあなたを探しておられるのです。あなたはキリストを見つけませんが、キリストはあなたを見つけます」と解説しています。

旧約・新約聖書とも「戸を閉ざされた後に「神は窓を開ける」「別のドアが開く」「もう一つのドアが開く」、またイエス様が戸口に立って、たたいている」というような神様の「救い」が始まることが示されています。

私たちは人生において、逆境・苦境に立たされて、正に人生の「戸」「扉」が閉まるような時がありますが、しかし、その時に必ず、「別の扉」「窓」が開いて、神様からの「救い」が始まり、事実、救ってくださることを覚えたいものです。

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