目に見えない熱心な祈りは届いている
目に見えない祈り
2004年の暮、鈴木秀子シスターはインドネシアのスマトラ沖地震で津波に遭った人々の心のケアにあたるため、タイを訪れました。
巨大ビルが新幹線のような速さでこちらに迫ってくるーーそんな大津波の恐怖にさらされながらも一命をとりとめた人々にたくさんお会いし、シスターは被災された方々の言葉にひたすら耳を傾け、そして、最後に皆さんへ一つの質問をしました。
「生死を分ける力となったのは、なんだと思いますか?」
日本人の若い女性は人間の力に及ばないと感じた瞬間、母が毎朝、仏壇で祈っている姿が思い出されました。『自分には祈ってくれる人がいる』という確信が私を救ってくれました」と答えました。
また日本人の青年は海に流されていると気づいた途端、「おばあちゃんが仏壇の前で手を合わせてくれているから大丈夫だと安心したのです」と答えてくれました。
フランス人の女性も「大波の猛々しい迫力を背後に感じながら山に逃げているとき、私は毎日教会で捧げられている祈りを感じました。その祈りが私を後押ししてくれて、襲ってくる波よりも早く逃げることができたのです」と語っています。
この人たちの体験を聴きながら、鈴木秀子シスターは「祈りには人と人とを結びつけ、お互いの絆を深める働きがあります。と同時にいざという場合に命をも救う働きがあることを、この奇跡の実話は教えてくれているのではないでしょうか」と述べ、「私は、目に見えない祈りは、いつも祈りをしている人のところに届いていることを確信しました」と語っています。
「毎晩教会に集まり、熱心に祈っていた」
沖縄県の日本メソジスト読谷山教会は大正期に沖縄の民俗信仰と相容れず、キリスト教に偏見を持っていた読谷山の村人から嫌がらせされたり、石は投げられたり、縁組みの拒絶、井戸や製糖所の使用禁止など、いわゆる村八分にされるという厳しい迫害を受けた時がありました。
そこで教会の信徒たちは毎晩教会に集まり、熱心に祈り続けていると、やがて、読谷山の村長が教会に好意を持ち、この理解のある村の指導者のお陰で、外面的な迫害・圧力は段々とおさまり、落ち着くことになりました。
このように教会で一つとなって、熱心に祈ることは神様からの良き助けを得て、好転した結果となるということが示されていると思います。
目に見えない熱心な祈りは届いている
新約聖書を見てみますと、重大な時や危機に際しては、クリスチャンは教会で集まって、神様に熱心に祈ったり、また、賛美して神様に祈っていることが記されています。
ペトロが投獄された時、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられて
いた」(使12:5)と記され、その後、ペトロが天使によって救い出され、
仲間の所に戻った時も「大勢の人が集まって祈っていた」(使12:13)と
書かれているからです。
またパウロも投獄された時にシラスと共に「賛美の歌を歌って神に祈って」(使16:25)いたことが記されていて、祈った後に大地震が起きて牢屋が壊れて、牢が開いて、解放されることになった(同上 16:26~40)ことが書かれてあるからです。
私たちも原点に返り、教会に集まって共に熱心に祈ること、心を一つにして、教会で心を合わせて、真剣に一生懸命に神様に祈ったり、また個人的にも困難な中のある方々のために神様に熱心に祈る時には「人と人とを結びつけ、お互いの絆を深め」、さらにその祈りは「いざという場合に命をも救う」こともあるのではないでしょうか。
私たちは「目に見えない祈りは、いつも祈りをしている人のところに届いていること」を覚え、これからも祈りを忘れることなく、絶えず、熱心に祈り続けていきたいと思います。
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