「夕べがあり、朝がある」「あなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう」

   できないことが増える

 

人は年をとると、「青年時代は、日々が短く年が長い。老年時代は、日々が長く

年が短い」(ニキータ・パーニン)、また若い時は、一日は短く一年は長い。

年をとると、一年は短く一日は長い」フランシス・ベーコン)と書かれている

とおり、一日が長く感じられることがあります


 また年を取るごとに動作が遅くなったり、「できないこと」が増えて、この

ことを作家のながれおとや氏は以下のように書いています。

年をとると 目も耳も歯も悪くなり 手も足も不自由になり できないことが増

 食べられないものが増え 楽しみが減っていく


同じようにメソジスト派のジョン・ウェスレー牧師も晩年には「私は今や年老

いた者だ。頭からつまさきまで(おとろ)えている。私の目もかすみ、私の右の手もひどく

ふるえる…私の動きも弱く、のろい」と『日記』(1790年1月1日)で記し

ています。


さらに病気になれば「できないこと」がますます増え、行動も動作もゆっく

りとなって、やることなすことが半日作業になっていき、忍耐しなければな

らない日々が増えるのではないでしょうか。


そのことについて、メアリ・ウルスィー・ハウランは『病の(とこ)にて』という

詩で次のように記しています。


 「私は静かに身を横たえる 朝 私の目が開くとき この身がここにあっても この身

がかしこにあっても 少しも思い悩むことはない 重き荷を背負い 旅路に疲れ果てた

私は むしろ憩いの時を求める 私を愛すると言われる方の胸に 私は顔をうずめたい

 健やかだった右の手も 今はかつての日のようには動かない 私はひとりで行かなけ

ればならない 今まで歩いたことのない遠い道を 黙って行かなければならない 私の

熱意も 勇敢さも 誇りであった力の強さも すべては過去のもの 私はとうとう来て

しまった 何もしたくない無気力なところに 私の半日の仕事は終わった なすべきこ

とは もうなし終えた 私はいまささげたい 私の忍耐の心を 私の忍耐の神に」

 

「夕べがあり、朝がある」

 

重度の障害を負いながら、神の光を仰ぎつつ生活をされている方は「私の生

活には夕べがあり、朝があるのです」と語っています。


そこから木村知己牧師は、「聖書は神の天地創造の記述から始まります。

混沌(こんとん)と闇が深淵(しんえん)(おお)っているとき、『光あれ』と光を創造されました。そして

昼と夜とを分けられ、『夕べがあり、朝があった』と。…神は私たちに夕べを与

え、朝を与えておられるのです」(『心を考える4 高齢期 心に希望を見つ

めるとき』)と述べています。

 

「夕べになっても光がある」

 

「その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく

 夕べになっても光がある」(ゼカリヤ14:7)という聖句があります

が、後半部分は口語訳聖書では「夕暮になっても光があるからである」、新

改訳聖書では「夕暮れ時に光がある」と訳されています。


この聖書の箇所は本来「見よ、主の日が来る」との審判の預言の一部です

が、しかし、人が老いや衰えを感じる時には「夕べになっても光がある」

(み言葉)は「慰めに満ちた言葉」『心を考える4 高齢期 心に希望を

見つめるとき』「はじめに」)と言えるのではないでしょうか。


「あなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう」

 

私たちは年々「できないこと」が増えて、肉体的にも気力的にも衰えて、苦

悩し、落胆したとしても、神様はあなたたちは生まれた時から負われ

を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日ま

白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わた

が担い、背負い、救い出す(イザヤ464)と語ってくださり、また

「冬から夏へ、夕暮れから日の出へと移ります。…あなたはついには完全な救い

を見る」(C・H・スポルジョン)という希望の言葉が与えられていますの

で、希望をもって生きていきたいと思います。

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