私たちの「重荷(おもに)」や「思い煩(わずら)い」のいっさいを神様にゆだねて
ベニヤミン・シュモルク牧師
18世紀にポーランドのベニヤミン・シュモルク牧師がいて、彼は若い時には夫人と共に
宣教・牧会活動し、朝早くから訪問に出てかけ、真夜中に帰宅することはよくあり、ある
時は2~3日家を空けることもありました。
ある時、シュモルク牧師が遠方の訪問を終え戻ってみると、家が火事になってすべて焼き
つくされ、灰の山をかき分けると二人の息子がお互い、固くぎゅっと抱き合いながら死ん
でいるのを見ました。
ショックを受けたシュモルク牧師夫婦は一瞬気絶してしまい、その後、意識を取り戻して
から、彼らが涙で神様に泣き叫んでいると、ふと『神様はこの状況を知らないはずはな
い』と思い、このことも神様の御旨の中にあるはずだという考えが思い浮かびました。
『聖歌469番 わが主イエスよ』
彼らは二人の息子の遺体(いたい)を前にひざまづき、祈りましたが、その祈りの内容が
以下の『聖歌469番』の歌詩となっています。
1.わが主イエスよ 愛のみ手に
身も心も ゆだねまつり
憂き悩み 歩み行くも
主よ み心 なさせたまえ
2.うれいの雲 胸をとざし
涙の雨 袖にかかり
わが望みは 消えゆくとも
主よ み心 なさせたまえ
3.はかなき世を わたるときも
天つ家に のぼる日にも
ただみ旨に まかせまつらん
主よ み心 なさせたまえ
シュモルク牧師は「憂き悩み」「うれい」「胸をとざし、涙の雨」が「袖にかか
り 望みは 消えゆくとも」「身も心も(神様に)ゆだね」て、そこから耐え抜き、生き
抜いていくことができたのです。正に「ぎりぎりのところから、思いきって自らの魂を神
の御前(みまえ)に投げ出す信仰こそが、苦しみから魂の解放へとつながっていく」(佐
藤彰牧師「『苦しみ』から生まれるもの」)と言えるでしょう。
「いっさいを神様にゆだねて」
イエス様も十字架上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ22:46)と叫
ばれました。また聖書では「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださ
る」(詩編55:23)、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさ
い。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7 『新改
訳』)と記されています。
私たちも「重荷」「思い煩い」のいっさいを神様に「ゆだね」て生きて行きたいも
のです。
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