神様への希望は失望に終わらない
打ち砕かれた希望
ナチスの強制収容所のある囚人は2月の中頃、「3月30日にアメリカ軍がやってきて我々を解放してくれる」という夢を見て、解放を強く、信じていました。しかし、夢のお告げの日が迫っても解放する見込みはなく、彼はどんどん元気を失くしていき、ついに3月29日突然、高熱を出して倒れ、3月30日には意識を失い、3月31日に発疹チフスで亡くなってしまいました。
また1944年、ナチスによる強制収容所で先が見えない中、クリスマスが来たら解放されるという噂が広まりました。しかし、現実は厳しく、25日のクリスマスがやって来ても解放されず、クリスマスの翌日、年末や翌年1945年の新年には大量の人が生命を落とすことになりました。
収容所にいた多くの囚人たちはクリスマス解放という希望が打ちくだかれ、落胆・失望し、未来を失うと共にその拠り所を失いました。さらに希望の喪失によって、内的に崩壊し、身体的にも精神的にも衰弱していき、そのことで急激に病気に対する抵抗力がなくなり、ついに力尽きて、死に至ったのでした。
「私の手に希望があります」
2005年8月末にアメリカ南東部を襲ったカトリーナ・ハリケーンの大惨事後、アメリカで特別報道番組があり、そこでニューオリンズの人々に記者がインタビューしていました。
ハリケーンが通り過ぎ、ほとんどの人々は惨状を訴え、周りの人たちに八つ当たりし、政府を非難し、挙句の果てに神様を罵る人もいて、大多数の人々が苦々しい思いをしていました。
そんな中、一人の若い女性がマイクの方に歩み寄ってきて、この女性は思い切り微笑み、顔が輝いていました。そこで記者は「あなたはどんな状態ですか?大丈夫ですか?」と尋ねると、女性は「何も問題ありません。愚痴を言おうとは思いません。マイクで申し上げたいのは、神様への感謝です。私は命が護られました。健康も支えられています。子どもたちも元気なんです。本当に感謝です」と答えました。
40度を超える灼熱の中で、クーラーもなく、電気が使えず、水がなく、人々は文句の言い放題の中、記者は思わず、「そんな力があるのはどうしてですか?クーラーでもお持ちなんでしょうか?」と深追いしてしまいました。女性は「いいえ、力どころか、家さえもありません。全部洪水が押し流してしまいました」と答え、しかし、笑みも絶やさず、「でも、私にあるものを申し上げますね」と語りました。彼女は屈んで、一冊の本である自分の聖書を取り上げ、その聖書を握りしめながら、噛み締めるように「私の手に希望があります。喜びもあります。何よりも平安があります」と語り、彼女の顔は希望に満ちていて、「神様はいつも私の味方です」と最後に締め括りました。
神様への希望は失望に終わらない
聖書において、「主よ、あなたはわたしの希望」(詩編71:5)、「神にのみ、わたしは希望をおいている」(詩編62:6)、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ1:27)「従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(Ⅰペテロ1:21)と記されています。
コロナ禍という過酷な環境の中で私たちは「神様にのみ」「希望をおいて」「わたしの希望」「栄光の希望」とするならば、「この希望が失望に終わることはありません」(ローマ5:5 聖書協会共同訳)という結果が待っているのではないでしょうか。
私たちは今後も「神様はいつも私の味方」「私の手に希望があります。喜びもあります。何よりも平安があります」という信仰告白をして、生きていきたいものです。
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