「命」「魂」は私たちのものではなく、「神様のもの」

 大きな力によって生かされた

 

先月号で私たちは『生きている』のではなく、神様に『生かされている』」ということを述べました。

今月号も「神様に『生かされている』」ということを実話から紹介したいと思います。

1995年の阪神大震災で生き()びたある男性の話です。

男性は兄の婚約パーティに出席し、疲れて帰るとそのまま寝てしまい、なぜか自分の部屋ではなく、2階にある兄の部屋で寝てしまいます。後に帰宅した兄は、自分の部屋で弟が寝ているので、しかたなく、1階の弟の部屋で寝ることにしました。

 明け方に、突然大地震に襲われ、1階で寝ていた兄は亡くなり、2階に寝ていた男性は死を(まぬか)れることになりました。

男性は運動で体を鍛えていたため、上から落ちてきたものを全力ではねのけることができ、ものすごい勢いで不意に落ちて来たにも関わらず、命を奪われずに済んだのです。

生き残った男性は、もしも自分が1階で寝ていたら…自分が体を(きた)えていなかったら…上から落ちてきたものをはねのけられなかったなら…と命の危機を体験して考えました。

そこで彼は偶然というには、あまりにも重なりすぎていて、これは自分を超える何か大きな力に助けられたとしか考えられない。自分は運よく、生き()びたのではなく、大きな力によって生かされたのだと気づいたのでした(鈴木秀子シスター『世界でたったひとりの自分を大切にする』文響社から)。


「生きている」という実感

 

前述と同年、カトリック援助修道会の高木慶子シスターは神戸灘区山田町にある修道院の二階の居室で寝ていた時、地震の一撃で、ベッドの上に振り上げられて、宙に浮いた時点で目が覚め、次の瞬間は床に叩きつけられました。そして、右の横にあった戸棚(とだな)が倒れ、その時に、「死んだ」と思ったそうです。しかし、「死んだ」と思ったら、次の瞬間、「ガチャン」という音で、「生きている」と思ったそうです。

後でわかったことは高木シスターは床に叩きつけられたため、戸棚(とだな)がシスターが寝ていたベッドの上に倒れ重なった時も(つぶ)されることなく、圧死せずに()んだのでした。

その大震災という怖い体験した高木シスターは「生きている」という感じは決して忘れられないと語っています。

 

「神様が私を生かしてくださった」

 

高木慶子シスターは命が助かって、「神様は私を助けてくださった。神様が私を生かしてくださったんだ。これは神が私をまだ生かしたいと思われたからなのだ。これからの生命は人様と神様のために残された生命なんだ。粗末(そまつ)にしてはいけない」と肝に命じたそうです。

上述の高木シスターのこれからの生命は人様と神様のために残された生命」という言葉は、星野富弘さんも表現を変えて、新しい命一式ありがとうございます 大切に使わせて頂いておりますが 大切なあまり仕舞いこんでしまうこともあり 申し訳なく思っております いつもあなたが見ていて下さるのですし 使いこめば良い味も出て来ることでしょうから 安心して思い切り 使って行きたいと思っております」(『命一式』)と詩で書いています。

 

すべての命、魂は神様のもの

 

聖書において、「すべての命はわたし(神)のものである」(エゼキエル18:4)と記されています。他の訳では見よ、すべての魂はわたしのものである」口語訳)、「みよ、すべての魂はわたしのもの」(旧約聖書翻訳委員会訳【岩波訳】)となっています。

身体の基となっている「命」「魂」は私たちのものではなく、「時が来たら、いずれは返さなければならない」(村上和雄)「神様のもの」であることを覚えて、神様のものである「命」「魂」を大切にして、生きていきたいものです。

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