「私には都合はなかと(ない)」

「私には都合はなかと(ない)」


NHK教育テレビの「こころの時代」でカトリック長崎大司教区の古巣(ふるす)(かおる)神父の活動が放映されていました。


古巣神父は島原という小さな教会に赴任した時、島原の郊外の病院に精神的に疾患をもった二人の信者さんを訪問した体験談を語っています。


その一人に「ミネヤン」の愛称で呼ばれていた60代の男性がいて、彼は30歳の頃に精神を病み、身寄りはなく、30年以上も入院生活を続けていました。


ある時、神父が「ミネヤン」のお見舞いに行く約束の日に気分が乗らず、キャンセルをして、翌日気を取り直して病院に行って、開口一番、「ミネヤン、昨日は私の都合で済みませんでした」と言ったそうです。


がんが進行し、寝たっきりだった「ミネヤン」は「よかとです。神父さん、神父さんの都合の良か時でよかとです。私には都合はなかとです。私は都合の言える人間でありません。…(もちろん)私にも都合がありました。早くここを出て、そして社会人として働きたい。私もせっかく生まれたんだから、生きがいを持って生きたい。そう言って自分の都合を言っているときは、とっても生きづらかったです。でもこの頃思うんです。私の都合でなくて神様の都合をいつも考えようって。神様の都合があるから、私はここにいるんだと思うんです。神父さん、私には都合はなかとです。あなたの都合の良い時に来てください」と言ったそうです。

神父は彼の言葉を聞いて、初めて金槌(かなづち)で頭を殴られるぐらいの衝撃を受け、その後は「ミネヤン」の人生を通して、命を分け与えていただいたと告白しています。

 

  

神様の都合をいつも考える

 

 「ミネヤン」は「私の都合でなくて神様の都合をいつも考えよう」と語りましたが、ここでの「私の都合」というのは「自分中心」「自己(自分)本位」ということができ、そのような「自分の都合を言っているときは、とっても生きづらかった」とも告白しています。


他方、「神様の都合」というのは「神様の御心」「神様の御旨」また、「神様中心」「神様本位」ということができ、「神様の都合を言っているときは、とっても生きやすい」ということになるでしょう。

 

「いのちより大切なもの」

 

星野富弘さんの「いのちより大切なもの」という詩は正に「神様中心」「神様本位」にしたことを表現していると思われます。


いのちが一番大切だと

思っていたころ

生きるのが

苦しかった

いのちより

大切なものが

あると知った日

生きているのが

(うれ)しかった

 

神様の都合を優先した先にあるもの

 

聖書においては神様の都合を優先する時、つまり、神様中心、神様主体とした時には、「主が右におられ、私は揺らぐことがない。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して(いこ)います。あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴(はかあな)を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔(みかお)を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手(みて)から永遠の喜びをいただきます」詩編16:9~11)という状態になることが示されています。


私たちも私の都合でなくて神様の都合をいつも考え」「神様の都合があるから、私はここにいる」という思いで生きていきたいものです。

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