神様だけを見つめ、仰ぎ見ること

マルティン・ルターの苦悩

 

16世紀の初頭、25歳の若きマルティン・ルターはドイツのヴィッテンベルク修道院に入った時、自分の罪に苦悩し、おびえ、深い挫折に陥っていました。

この時、彼はもはや自分自身の力ではどうにもならないところまで追いこまれていて、もう神様の力に頼るしかなかったのですが、しかし、彼は行いによる救いの達成への執着や自己愛に縛られ、自力で生きて、苦しんでいたのでした。


 そこでルターはドイツのヴィッテンベルク大学初代神学部長のシュタウピッツに罪と苦しみを告白することにしました。シュタウピッツはルターと一緒に悩み、絶えず、自分の罪の問題で(うめ)き苦しんでいる様子を見て、「罪のために自分を苦しめることをせず、(あがな)い主の腕の中に自分自身を投げ入れよ。彼を信頼せよ。彼の生涯の義と彼の死による贖罪に信頼し、……神のみ子に耳を傾けよ、彼はあなたに神の恵みの確証を与えるために、人となられた。まずあなたを愛された彼を愛せよ」助言しました。


ルターはシュタウピッツの「自分の罪だけを見ることをせず、キリストだけを見ること、キリストのみ愛すること」を教えられ、目覚めさせられたのでした。


今までのルターは「自分」がどうであるか、「自分」は罪を犯していないかというように「自分」ばかり見つめて、苦しんでいましたが、しかし、このシュタウピッツの助言によって、「自分」を見ることから、イエス・キリストを仰ぎ見ることに転換し、キリストがどんな恵みを与えてくださったかを聖書を通して考えるようになりました。


その後、ルターはキリストの十字架の恵みを時間をかけながら体感していって、無限に深い魂の平安を得たのでした。


自分だけを見ていたら、悩むしかない

 

英国有名の説教師スポルジヨンも青年に対して、「青年よ、汝自身を見ることなく、キリストを見よ」と語りました。

また『神に愛された女性たち──西洋名画と読む聖書』の著書である大嶋裕香さんも「『これまでは自分を見ていたな。自分を見ていたら、悩むしかない。目をイエス様に向けよう』と思ったのです。その時から自分の心が自由になり、解放され、クリスチャンとしての喜びが湧いてきました」と告白しています。

 

「横を見るな、上を見よ」

 

一般的に人は自分のことや人のこと、起こっている問題、課題などについてだけに目が行き、その問題だけに焦点が行き、苦しみ続けるということはよくあるのではないかと思います。


羽鳥明牧師は「人間が駄目になる一つの確かな生き方は、上を、つまり神さまを見ないで、横を、つまり人ばかり見て生きる生き方だと思う…横を見たら、がっかりすることばかり。横を見て威張ったり、ペシャンコになるのはやめましょう。上を見てください。イエスさまの愛の中に、あなたの主体性、世界でたった一人のあなたとして愛され、期待されていることを見出して、力強く生きてください」(『心ゆたかに』「横を見るな、上を見よ」)と述べています。


私たちも自分のこと、また人のことや問題ばかりという横を見て、上の、神様を見ず、神様に問題をあずけることなく、自分の力で何とかしようとしていないでしょうか。

 

   神様だけを見つめ、仰ぎ見ること

 

新約聖書のコロサイの信徒への手紙3:1,さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさいと記されています。


また「信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)と教えられています。他の訳では「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ」(口語訳)「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(新改訳)となっています。


ギリシャ語では「人間」を「アンスローポス」と言い、これは「上を見る者」また「上を見上げる」という意味となっています。つまり、人は上を見る存在、神様を仰ぎ、神様を求める存在だということです。


 私たちは自分のこと、人のことや罪、問題という横を見るのではなく、上だけ、神様だけを見て、神様を仰ぎながら、生きていきたいものです。


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