ロシア人青年兵士の祈り


ロシア人青年兵士の祈り

第2次世界大戦で戦死したロシア人青年兵士の祈りがあります。

聞いてください、神様。

今まで、僕はあなたに話しかけたことなど一度もありません。

けれども、今、あなたに何かを訴えたいのです。

子どもの頃から、僕は、あなたなんかいないと聞かされてきました。

愚かにも僕はそう信じてきました。

今まで一度もあなたのみ業について考えたことがありませんでした。

でも、今夜、頭上にきらめく星を眺めていて、人の残酷さに気がつきました。

神様、あなたの手を僕の上に置いてくださるでしょうか。

とにかく僕はあなたに語りかける、あなたは分かってくださる。

光が僕に出会うのは別に不思議ではありません。

僕はこの呪わしい夜にあなたに対面しています。

もう言うべきことはありません。

とにかく、あなたを知ることができてうれしいのです。

真夜中、僕の隊は出撃の予定です。

でもあなたがご覧になっているので怖くはありません。

合図です。もう行かなくては。

あなたと一緒で幸せでした。

もう一つ言わせてください。

あなたがご存じのように、闘いは激しく、今晩僕はあなたのドアを叩きに
行くかもしれません。



今まで、僕はあなたの友ではなかった。

それでも今夜。僕が行ったら中へ入れてくださいますか?

どうして僕は泣いているのでしょう。

神様、あなたは僕に何が起こったのかお分かりですね。

今晩、僕の目は開かれたのです。

さようなら、神様。

もう行かなくてはなりません。

たぶん生きては帰れないでしょう。

おかしいのでしょうか、僕はもう死を恐れてはいないのです。」


この祈りはロシアの青年兵士が戦場という極限状況で中で「神様、聞いてください」という題で書いた祈りの詩で、死後に彼の外套の中から見つかりました。


彼は死ぬ直前まで、聖書を知らず、救い主キリストや神の存在も知らず、戦闘では生きて帰れないことを覚悟していましたが、しかし、最後の最後に目覚め、神様の臨在を感じ、死を恐れることなく、死に赴いたのでした


彼の最期の切実な祈りは正に詩篇31編5節の「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と同じ心境で、それ故に神様に受け入れられ、応えられたと言えるのではないでしょうか。


死ぬ直前まで神を知らず、神への祈りをしなかったロシア青年兵士でさえ、神が憐れみ、共にいてくださって、天国のドアを開けてくだったとしたら、まして神様を知り、神様に頼り、神様への信仰をしてきた私たちには神様はさらに憐れみをかけ、常に共にいてくださって、天国に温かく迎えてくださるのではないでしょうか。

委ねた暁(あかつき)には

 ロシア青年兵士は戦場の極限状況でも「あなたがご覧になっているので怖くはありません」と言い、さらに死を前にしても死を恐れてはいないのです」と告白していますが、それは生も死もすべて神様に「委ねた」からと言えるのではないでしょうか。

 
「委ねる」とは、「お任せする」「明け渡す」「託する」という意味をもっています。


神様に「委ねた」暁には聖書においては、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」1ペテロ5:7)、新改訳では「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。またあなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる詩篇55篇23節)、「主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(同37編4節)と記されています。


キリスト教カウンセリングセンター理事長の加来周一氏は「委ねるとは、『私』という存在に望みを置くのでなく、神に望みを置くことにほかなりません。その瞬間、迷う自分は消えています」と述べています。さらに「委ねる」ことはロシア兵士のよう「死を恐れる」こともなくなるということがわかります。


「人生には、にっちもさっちもいかなくなって、どうにもならないということが往々にしてある」(加来氏)ものですが、私たちはその時には神様に「委ねる」という姿勢を取り、委ねた暁には迷いや死の恐怖も消え失せるということを覚えたいものです。


【解説】

渡辺和子シスター『置かれた場所で咲きなさい』より

「神は信じる者を拒まない」

その詩を、いつ、誰から渡されたのか覚えていないのですが、私の手許には「戦死したロシア兵の祈り」があります。
 
それは一人のロシア兵士が、激しい戦闘への出陣を前にした時、初めて気付いた神に語りかけている詩です。

「聞いてください。神さま。僕は今まで、あなたの存在について全く知りませんでした。子どもの頃から、あなたなんかいないと聞かされ、そう信じてきました」という言葉で、詩は始まっています。
 
その彼が、生きて戻る可能性のない出撃の夜、頭上にきらめく星を眺めていて、それまで全く無関心だった神の存在と、人間の残酷さに気付いたのでした。

 出撃の合図のラッパを聞きながら、兵士は続けます。
「もういうことはありません。あなたを知ることができて嬉しいのです。あなたがご存知のように、戦いは激しく、今夜、僕は、あなたのドアを叩きに行くかもしれません。そんな僕が行ったら、入れてくださいますか」

 さらに続けます。

「僕の目は開かれたのです。さようなら神さま。もう行かなくてはなりません。多分生きては帰れないでしょう。おかしいのでしょうか。僕は、もう、死を恐れてはいないのです」
 
神の存在に全く無関心であった一人の兵士が、死を前にして、神のみ業である満天の星を見た時、その存在に気付き、神と出合い、親しく語りかけている美しい詩です。
 
作者もわかっていないこの詩を一読して、私は心打たれました。神を知ったがゆえに、心に平安を得たこの兵士は、その夜、神のふところに温かく抱きとられたことでしょう。神は無関心であった者にこそ、いつも愛に溢れた関心を寄せているからなのです。

《神さまは無関心で
あった者にこそ、愛に溢れた
関心を寄せている。
神の存在を感じた時、誰でも心おだやかに過ごすことが許される。》

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