「主なる神様こそ主役、主人公」「あの方は栄え」「私は傍役(わきやく)」ということを心がける
「私は傍役(わきやく)」
今は亡き、カトリック教会作家の遠藤周作氏は人生の主役、傍役(脇役)について、以下のように述べています。
芝居には傍役というものがある。
傍役は言うまでもなく、主役のそばにいて主役のためにいる役である。
その勤めは主役と共に芝居の運行をつくっていくのだが、
また主役を補佐したり、主役をひきたてるためにもある。・・・
しかしなぜ私がこんなわかりきったことを書いたかというと、我々は我々自身の人生ではいつも主役のつもりでいるからだ。
たしかにどんな人だってその人の人生という舞台では主役である。
そして自分の人生に登場する他人はみなそれぞれの場所で自分の人生の傍役のつもりでいる。
だが胸に手をあてて一寸、考えてみると自分の人生では主役の我々も他人の人生では傍役になっている。・・・
だが人間、悲しいもので、このあたり前のことをつい忘れがちなものだ。
たとえば我々は自分の女房の人生のなかでは、傍役である身分を忘れて、まるで主役づらをして振舞ってはいないか。
以後、女房にムッとしたり腹がたつ時があっても、「この人のワキヤク、ワキヤク」と呪文(じゅもん)のように呟くことにしている。・・・
夜、眠れぬ時死んだ友人たちの顔を思い出し、俺はあの男の人生で傍役だったんだな、と考え、いい傍役だったかどうかを考えたりする。
もちろん、女房の人生の傍役としても良かったか、どうかをぼんやり思索もしてみる。
「主なる神様こそ主役、主人公」
聖書においては主役、主人公は「人間」ではなく、もちろん「主なる神」様であることを様々な言葉に変えて、表現されています。
「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」(コロサイ1:16-18)、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ11:36)と記されているからです。
また「神は、全地の王 ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。神は諸国の上に王として君臨される」(詩編47:8,9)、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、
全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(黙示録1:8)と記されているとおりです(上述の「全能者」と訳されている言葉は、新改訳聖書では「万物の支配者」と訳されています)。
「あの方は栄え」「私は傍役」ということを心がける
洗礼者ヨハネは救い主イエス様に対して「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と語っています。他の訳では「あの方はますます偉大になり、私はますます力を失います」と訳されています。
洗礼者ヨハネはイエス様が偉大となって、栄え、自分は衰え、力を失っていくことになっていると述べ、つまり、彼にとって「私が栄え、イエス様が衰える」のではなく、「イエス様が偉大となって、栄え、自分は衰え、力を失っていくこと」、それこそが自分の人生であり、自分の喜びだと告白しているのです。
このヨハネの姿勢は神様を主役、第一として考え、自分を目立たないようして、言わば黒子のように脇役に徹していると言えるでしょう。
事実、洗礼者ヨハネは自らを伝えず、イエス様が栄えることをおぜん立てし、公の宣教活動からは退き、聖書の表舞台からは姿を消しました。
私たちも人生の主役、主人公はイエス・キリストであることを再認識し、私たちの人生で何か問題があった時も人から誉められた時も「私は傍役」「イエス・キリスト」の「ワキヤク、ワキヤクと呪文(じゅもん)のように呟く」ことを心がけ、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という姿勢で人生を歩んでいきたいと思います。
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