「今日という日」「今日は贈り物で、恵み・救いの日」
「おじいちゃんの遺言」
余命3か月のおじいちゃんが孫に次のように語りました。
もし僕が君に1億円をあげると言えば
君は受け取るかい?
答えはみんなYESだ。
じゃ、代わりに明日が来ないと
言われればそれでも君は1億円を
受け取るかい?
答えはみんなNOだ。
そう、明日が来るって事は
当たり前じゃないし
計り知れないほどの価値がある。
みんないつ死ぬかわからない。
明日が来ないかもしれないと思うと
今日一日がどれだけ大切かわかる。
一日一日何ができるか大切に生きよう。
「今日という日」
白血病の息子を献身的に介護する父親が「あなたがくだらないと思っている今日は、昨日亡くなった人が何とかしていきたかった 何としてでも生きたかった今日なんです」と語っています。
またカトリック教会の司教である聖フランシスコ・サレジオ神父も「今日という日」という題で以下のように書いています。
わたしの過去、
それがわたしを悩ますことは、
もはやない。
それはすでに
神の慈しみのうちにある。
わたしの将来、
それがわたしを悩ますことは、
いまだない。
それはまだ
神の摂理のうちにある。
わたしが心がけねばならないのは、
いま、ここ、今日という日。
しかし、それも神の恵みの
うちにあり、
わたしが自分の良き意志を
おささげすることに
かかっている。
「今日は贈り物で、恵み・救いの日」
英語で「現在」は『Present』、「プレゼント」と訳され、「贈り物」も同じく『Present』「プレゼント」と訳されています。
「現在」は「今日」と言う言葉とほとんど同じ意味になりますので、「現在」、つまり、「今日」は「プレゼント」、つまり、「贈り物」と言うことになるでしょう。
ナンシー・ウッドという女性は『今日という日は贈りもの』という題で「昨日は過去、明日は謎、今日という日は贈り物(ギフト)。だから、現在を『プレゼント』という」と言っています。
聖書においても、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)、「…神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない…」(Ⅰテモテ 4:4)と記され、イエス様も「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と語られていています。
私たちは「今日という日」は神様からの「恵み」「救い」の「贈り物」として受け止め、「一日一日」を「大切に生き」ていきたいものです。
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