「物事をどう見るかによって、人生の色合いが変わる」
「賢者の見方」
ある山奥に住む賢者は何があっても悪いことは言わず、豪雨だろうか、旱魃だろうと「すばらしい」「すごい」と物事のいい面ばかりを口にしました。
そんな賢者を見て、人々は「あの賢者はいいことしか言わない。でも人間はいいことばかり言っていられるわけがない。賢者だってイヤなことがあるはず。どう見ても悪いところしかないものを見せつけて、『これはイヤだ』と言わせてやろう」と意地悪な考えを思いつきました。
そこで村人は皆と相談して、道端に耐えがたい異臭を放つ、見るも無残な獣の腐った死骸を置いて、賢者を誘い出し、わざとその場所に通るようしむけました。
村人は「あそこに獣が死んでいます。醜いですね。ひどい悪臭ですね」とさんざん悪口を言うと、賢者は立ち止まり、獣の死骸を見つめて「歯がキラキラと光って、なんと美しいのでしょう。宝石のように輝いているではありませんか」と言いました。
見れば確かに、獣の歯は燦燦と降り注ぐ太陽の光を受けて、真珠のように輝き、腐って耐えがたい異臭をふりまいていても、そこだけを見れば大変美しく感じられました。
賢者を言い負かそうとしていた村人は「物事はそんなふうに見ることもできるのか」と学び、改心しました。
「15歳の少女と13歳の少女」
アメリカの新聞に15歳の少女が以下のような投稿をしました。
「私は不幸です。自分の部屋も持っていないし、両親の干渉が強くて私を信じてくれません。私のことを好きな男の子もいないし、素敵な服も持っていません。私の将来は真っ暗です。」
この投稿を読んだ13歳の少女が、新聞社に次のような文を送りました。
「私は歩くことはできません。人が歩いたりすることがどれほど大きな幸せでしょうか。私は歩くことはできませんが、見たり聞いたり、話したりすることができるので、足の不幸に不平を言う代わりに、感謝をしています。」
「二人の伝道者の捉え方」
ある二人の伝道者がいて、ある日、砂漠を横断していましたが、行けども行けども果てしない砂漠が広がっていて、飲料水も食料もすべて底をつき、ラクダさえも倒れ、もう望みはなく、二人はとうとう死を覚悟し、それぞれ最後の祈りをささげました。
一人は「神様、私があれほど一生懸命福音を伝えたのに、このように渇いて死なせるのですか?」もう一人は「神様。ここで私の役目を終えさせて、私のために準備されている天に導いてくださり感謝します。」
二人が祈り終わるなり、近くにオアシスがあることを目にして、最後の力をふりしぼって、オアシスにたどり着くと、二人がやっとのどを潤す程度の水があり、一人は「どうせ下さるなら、もっと多く下さればいいのに。これは何だ。」
もう一人は「神様。この水で渇いたのどを潤し、命を少し延ばしてくださって感謝します」と祈りました。
「物事をどう見るかによって、人生の色合いが変わる」
淀川キリスト教病院理事長は柏木哲夫氏は「同じことをどう見るかによって、その人の人生の色合いがずいぶん変わります。『半分のワイン』という有名な話があります。ワインを飲んでいて、ワインがグラスに半分になったとき、『まだ残りが半分もある』と思う人と、『もう半分しかない』と思う人とでは、大げさに言えば、『思考体系』が違ってきます。プラス思考かマイナス思考かによって、どんな人生になるかが決まるといっても大げさではないでしょう」と述べています。
聖書においては「というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです」(Ⅰテモテ4章4節)で記されています。
私たちは実践的には非常に難しいですが、私たちも起こる「出来事」や「現象」に対して、「不平不満」を言うのではなく、「プラス思考」で「物事のいい面ばかりを口」にして、最後まで神様に「感謝」する姿勢で生きていきたいものです。
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