「背後から助け、救ってくださる神様」

           「少年と小船」

 

少年が小船を造り、小おどりしながら、その船を池に浮かべに出かけて行きました。ところが水に浮かべて遊んでいるうちに、小船は手の届かない所まで流されて行ってしまいました。

すっかりしょげかえった少年はそこにいた年上の子供に助けを求め、その小船を岸に戻してくれるように頼みました。

ところがその大柄の少年は無言で石を拾うと、その船の方に投げ始め、それを見た少年は自分の船を取り戻してくれるどころか、意地悪されているのだと思いました。
 しかし、驚いたことにその大柄の少年が投げている石は船には当たらず、船の少し向こうに落ち、小さな波を作ってはその船を岸へ岸へと近づけています。

一つ一つの石はちゃんと計画されていて、ついに船は岸へとたどり着き、少年は自分の宝物を再び取り戻したので大喜びしたのでした。

「少年と小船」の話にあるとおり、この大柄の少年のような方法で神様は人を救われることもあるということを示しているのではないでしょうか。

 

「信心深い男と神様の救い」

 

ある村で洪水が起きて、避難勧告が出ましたが、そこに信心深い男がいて「神様が助けてくださる」と言って逃げませんでした。

家は浸水して、男は屋根に上がって、そこに救助ボートがきましたが、男は「神様が助けてくれるはずだ」と言って、ボートに乗ることを(こば)みました。

次に救助ヘリが来ましたが、しかし、男はこれも(こば)み、そして、濁流(だくりゅう)にのまれて死んでしまいました。

天国で男は「神様、なぜ私を助けてくださらなかったのですか」と言うと、神は「私は、お前を度助けに行った。お前が(こば)んだのだ」と言いました。

 

  「力の限りの祈りと神様の救い」

 

他方、上述の話と正反対な実話もあり、ある男性が息子と一緒に釣りに出かけると、大きな嵐がやってきて、釣り船ごとのまれてしまい、男性はすぐに陸に上がれたものの、息子がどんどん沖へ沖へと流されていくのが見えました。

男性は「神様、助けてください。どうか息子をお救いください」と力の限り祈ると、奇跡的に息子は近くの漁船に助けられ、九死に一生を得ました。

また彼は「『近くに浮いているクーラーボックスから手を離すな』という声がどこからか聞こえた」と述懐(じゅっかい)さらに男性の持ち物も全て海に流されてしまいましたが、しかし、ある牧師からもらった聖書だけは水にぬれることなく無事で、こうした経験からその男性は後に救われ、クリスチャンになりました。

 

「背後から助け、救ってくださる神様」

 

『少年と小船』の話で出てくる「大柄の少年」の行動や『信心深い男と神様の救い』の話にあるとおり、神様の救いの方法は人間の思いや考えとは異なっていると言えるのはないでしょうか。

 

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

わたしの道はあなたたちの道と異なると

主は言われる。

天が地を高く超えているように

わたしの道は、あなたたちの道を

わたしの思いは

あなたたちの思いを、高く超えている(イザヤ55:8-9)

 

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」箴言(しんげん)16:9)

と記されているとおりです。

神様の救いの方法は「多くの形で、また多くの仕方」(ヘブライ1:1)があり、困難や危機的な時に神様は人を通したり、また自然的な方法で私たちを背後から助け、救ってくださることを覚えたいものです。

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