すべては美しい大輪の花が咲くためー「苦しみに会ったことは幸せでした」
すべては美しい大輪の花が咲くため
心理学者の小林正観氏はハス(蓮)の池の水をきれいな水にすると4cm〜5cmの大きさのハスの花が咲くが、しかし、池の水がドロドロに汚れていると、さらに25cm〜30cmの大輪のハスの花に育ち、つまり、池の水が汚れていれば、汚れているほど、美しく、大きなハスの花が咲くと語っています。
続けて、小林正観氏はハスの花に3つの特徴があるとして、第1に「花果同時(かかどうじ)」という、花と果実が同時に開き(実る)、花が開いた時に中にはすでに果実が存在している。
第2に「汚泥不染(おでいふせん)」という、どんなに汚い泥の中から立ち上がってきても、その汚れに影響を受けず、とてもきれいにハスの花が咲く。
第3に「ハスにあだ花なし」というように、ハスの花には咲きそこなったり、きれいに開かない「あだ花」がないと言われています。
そこから小林正観氏は「ハスの花は、『泥水』の中からしか、立ち上がってこないといわれていますが、真水の場合、ハスは立ち上がってきません。
しかも、泥水が濃ければ濃いほど(水が汚れているほど)、ハスの花は、大輪の花を咲かせるらしいのです。
泥とは、人生になぞらえれば、『つらいこと』『悲しいこと』『大変なこと』です。
ハスの花とはまさに『人生の苦難の中で、花を咲かせること』です。そして、その花の中の実が『悟り』ということにほかならないでしょう。
泥水から立ち上がってきたハスの花は、きれいに咲く。泥の中から立ち上がってきたことを感じさせないほど、美しく咲いています。
つまり、どんな悩み・苦しみ・大変なことの中から立ち上がってきても、そこで泥を突き抜けて花を咲かせた人は、美しいもの(悟り)を手に入れる、ということです。
『私たちには泥水が必要である』そう思うことができれば、『不幸』や『悲劇』と言われていることは、じつは自分にとって、ものすごく嬉しく、楽しく、幸せで、素晴らしいことだということに、気づけるのではないでしょうか」と述べています。
「苦しみに会ったことは幸せでした」
旧約聖書の詩編の作者も「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71 『新改訳聖書』)と告白しています。
他の訳では、「困苦にあひたりしは我によきことなり 此によりて我なんぢの律法をまなびえたり」(『文語訳聖書』)。
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(『口語訳聖書』)。
「私が苦しめられたのは、私には善きこと、あなたの掟を学ぶために」(『新約聖書翻訳委員会』〔岩波訳〕)。
「卑(いや)しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(『新共同訳聖書』)。
「さげすまれたのは、わたしにとって善いことでした。あなたの掟を学ぶために」
(『フランシスコ会訳聖書』)と訳されています。
詩編の作者は権力者から迫害にあって、苦しみにあえぐという状況にあり、つまり「泥」という名の「つらいこと」「悲しいこと」「大変なこと」を体験したのでした。
しかし、彼は人生の中での「苦しみ」という泥水が濃ければ濃いほど、自分自身を神様に向かわせ、人間性を高め、内面を磨き、心を美しいものとさせる契機になったことがわかり、そこで上述のように告白したのです。
「星野富弘さんの信仰告白」
不慮の事故で手足の自由を失い、筆を口にくわえ、花に寄せて、詩画(しが)を書いた今は亡き、星野富弘さんは「けがをして、すべてを失ったと思ったが、気がつくと、私にはまだ、たくさん残されているような気がした。見ること話すこと、よろこびや悲しみを感じられる心、感謝できる心。身体は不自由になったが、自由な心は残っていた。苦しみや悲しみの中で、私を思ってくれる人たちの優しいこころにも、たくさん出会った。生きていて良かった。」と、つまり、「『苦しみに会ったことは私にとって幸せでした』詩篇119:71のみことばは私の信仰告白です」と語っています。
私たちも苦しく、つらい出来事が起こる度に、つまり、この世の泥水が濃ければ濃いほど、汚れていれば汚れているほど自分自身の美しい大輪の花が咲くということを覚え、実践的には非常に難しいですが、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と告白したいものです。
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