「天国への道を望むならば、人のために時間を費やす人生を送る」こと
「天国への道を望むならば」
今は亡き、聖路加国際病院名誉院長だった日野原重明氏は「私はあの世に対しては、次のようなイメージをもっています。死んだら誰もが、閻魔様の前に立たされ、閻魔様は天秤棒を持っていて『あなたは生きてきた時間のうち、どれくらい自分のために使って、どれくらい人のために使いましたか』と尋ねられる。右の秤には趣味や仕事、お金儲けなど自分のために使った時間の錘が、左の秤には
人のために使った時間の錘が載せられていて、左に傾けば文句なく天国へ。せめて平衡か、右側の自分の時間のほうへ傾いても30度ぐらいが理想です。…100年生きてきた私ですが、傾きは右へ80度ぐらいでしょうか。人のために使った時間はまだまだ少ないに違いありません。天寿をまっとうし、天国への道を望むのならば、自分のためではなく、人のために時間を費やす人生を送りたいものです」と述べています。
クリスチャンである日野原重明氏があえて「閻魔様」と表現しているのは「天国・地獄」のたとえ話として、一般的にわかりやすいように説明したかったからでしょう。
「神様から受ける質問」
ユダヤ教では「最後の審判で、神から受ける質問の一つに、『あなたは伝承に何か新しいことを加えて、次の世代に手渡したか』があるが、それに『はい』と答えられなければ、罰を受ける」と教えているそうです(NHK「心の時代」雨宮彗談)。
今は亡き、心理学博士、教育学博士の小林正観氏は臨死体験の経験がある人た
ちの話として、「肉体が死んでもあの世に行くとき、私たちは神様から『あなたはどれだけ人生を楽しんできたか』を問われる」と紹介していて、小林正観氏は「肉体の制約があるからこそ味わえる楽しみもあります。今生は今生でしか経験できないことをすべて味わい、自分の存在が周りから喜ばれるように、思い切り楽しんで生きることにしませんか」と語っています。
同じように鈴木秀子シスターも「死の際に、わたしたちは神聖な存在によって、『あなたは愛によって、どんなことをしましたか?』と問いかけられ、それ以外の問いかけは一切ない」と言われています。
「自分のことを神に申し述べ、申し開きすることになる」
聖書においては「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブライ4:13)。
『聖書協会共同訳』では「神の前にあらわでない被造物はなく、すべてのものは神の目に裸であり、逃れることはできません。私たちはこの神に弁明しなければなりません。」
『口語訳聖書』では「そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。」
『新改訳聖書』では「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」と記されています。
また「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(ローマ14:12)。『聖書協会共同訳』では「それで、私たちは一人一人、自分のことについて神に申し開きすることになるのです」と記されています。
私たちは生きている間に神様から与えられた「愛によって」「自分のためではなく、人のために時間を費や」し、「思い切り楽しんで生き」たということを最期に「神に申し述べ」「神に申し開き」したいものです。
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