「神様にすべてをゆだねる」「自分を明け渡す」
ディートリヒ・ボンヘッファー牧師
1944年のクリスマスにドイツの福音主義のディートリヒ・ボンヘッファー牧師が婚約者マリアに送った手紙を基に作られた『善き力に(われ)囲まれ』という以下の賛歌があります。
「良き力に真実に、静かに囲まれ、すばらしく守られ、慰められて、私は現在の日々を
あなた方と共に生きようと思う。そして、あなた方と共に新しい年へと歩んでいこう。
古い年はなおもわれわれの心を苦しめようとしており、悪しき日々の重荷は、なおもわれわれを圧迫する。
ああ、主よ、われわれのとび上がるほど驚いた魂に、救いをお与え下さい。あなたはそのためにわれわれを造り給うたのですから。
そしてあなたが、重い杯を、苦い苦しみで今にも溢れんばかりに満たされた杯をわれわれに渡されるなら、われわれはそれを、ふるえもせず、あなたの良い、愛に満ちた手から受けよう。
だが、あなたがもう一度われわれに喜びを、この世界について、その太陽の輝きについての喜びを下さるおつもりなら、われわれは、過去のことを覚えよう。そしてその時、われわれの生はすべてあなたのものだ。
今日はこのろうそくを暖かく、明るく灯らせておいて下さい。それはあなたがわれわれの闇の中にもって来て下さったものなのです。もしできることなら、われわれがもう一度会えるようにお導き下さい。われわれは知っています。あなたの光は、夜輝くのです。
静けさが今、われわれのまわりに深く広がるとき、われわれにあの豊かな音を聞かせてください。目には見えなくてもわれわれのまわりに広がる世界の豊かな音を、すべてのあなたの子らの高貴なほめ歌を。良き力にすばらしく守られて、何が来ようとも、われわれは心安らかにそれを待とう。神は、夜も朝もわれわれのかたわらにあり、そしてどの新しい日も必ず共にいまし給う」
その後、1945年4月9日にボンヘッファー牧師はナチスの司法当局によって処刑されることになりますが、彼の最期を看取ったヘルマン・フィッシャーという収容所付きの医師は以下のように記しています。
「その日の五時から六時の間に、……帝国裁判所判事ザックを含む囚人たちは、獄房から引き出され、戦時裁判所の判決文が読み上げられた。バラック建ての一つの部屋の半開きの扉を通して、私はボンヘッファー牧師が着ていた囚人衣を脱ぎ棄てる前に、床にひざまずいて、彼の主なる神に真摯な祈りを捧げているのを見た。この特別に好感の持てる人物の祈りが、いかにも神に身をゆだね切って、神は確かに祈りを聴きたもうという確信に溢れていたのに、私は非常に深い感銘を受けた。処刑される時にも、彼は短い祈りを捧げ、それから力強く落ち着いて、絞首台への階段を昇って行った。死はその数秒後におとずれた。私は今まで、ほとんど五十年にわたる医者としての生涯の中で、このように神に全くすべてをゆだねて死に就いた人を見たことはほとんどなかった。」
「神様にすべてをゆだねる」
聖書においては「ゆだねる」ことについて、イエス様は十字架上で最期を迎えた時、「『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた」(ルカ23:46)のでした。
イエス様の「御手にゆだねます」というみ言葉は詩編31編6節の「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます」からの引用です。
「ゆだねる」とは「自分を明け渡す」という意味があり、佐藤彰牧師は「究極的には、生も死も、自分の全存在の一切を神の御手の中に託し、任せ切ってしまうこと。文字どおり、魂から何から、自らの一切を、思いきって神の御手の中に預けてしまう。あとはもう心配しない。思い煩うこともしない」ことと述べています。
2025年に当たり、「われわれの生はすべてあなたのもの」と言われる「神に身をゆだね切って」「神に全くすべてをゆだねて」「新しい年へと歩んで」行きたいものです。
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