「神に愛されていることただそれだけ」 最期に残るものは「神の愛」
「最後に残るもの」
2024年5月号『月報』で「弱って、もはや人のために役たたずとも…神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる」(ヘルマン・ホイヴェルス神父『最上のわざ』の詩)。また「私は信仰の最後に残るのは祈りと讃美歌だと思っています。子どものころから歌っていた讃美歌、今でも空で歌うことができる讃美歌、最期の日でも心の中で歌える讃美歌、その讃美歌を繰り返し歌うことが信仰の養いになり、最期の日々でも私たちの力となり励ましになるのです」(上林順一郎牧師)と記述しました。
「神に愛されていることただそれだけ」
31歳の時に多発性硬化症という大変な難病にかかって、手足が動かなくなり、目が見えなくなり、口も動かなくなり、だんだん呼吸も困難な状態になっていった阿南慈子さんというクリスチャン女性も基本的に上述と同じような考え方を持っています。
阿南慈子さんは「再発を繰り返すたびに視力や身体のあちこちの機能が衰え、今まで当たり前のようにしてきたたくさんのことが、どんどんできなくなっていく。あれもダメ、これは無理と次々と消していくと、あと何が残ったのか。それはわたしにとって生きることの意味は何であるかの答えを出すことであった。
自分が生きている値打ちは、苦しい模索の末に、わたしなりの結論が出た。それは人への愛と、神への愛(祈り)。…人への愛と神への祈りは、病気にも障害にも決して邪魔されることはない」と語っているからです。
しかし、彼女は「でもこれら心の姿勢、精神性を最上のものとすればするほど、それを抱きえない場合はどうなるか。病気によってそういう状態にわたしもなるかもしれない。実際そうなって、この世を去っていった難病の友が何人もいる。また精神・知的障がいのある人や、老人性認知症の人の存在価値は?
それを考えると、私は結論を改めよう。人への愛と神への愛(祈り)、この例えようもなく貴重なものが消え去っても、なお神からの愛がある。神はすべての人の魂を愛し、その幸せを望んでおられる。だからわたしにとって存在の価値は、〝神の愛〟〝神に愛されていることただそれだけ〟……」と述べられています。
また、彼女は「人の目には価値なき者に見えるかも知れない私でも、神に愛されていることを知っているから、こんなに幸せ。人の目には価値なき者に見えるかも知れない私でも、神に愛されていることを知っているから、こんなに幸せ。『神に愛されている』。私も、そして周りの人も。そういう目で見ることが難しい時もあります。でも、難しくても、神様の愛に変わりはないんです」と語っています。
最期に残るものは「神の愛」
私たちは「神はだれもお捨てにならない。…神はわれわれが離れていてもそばにいても、変わることなく、誠実である。神は愛であり、命である」(М・ロバン)ことを魂に刻みたいと思います。
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