イエス・キリストに頼る先にあるもの
成功、富、名声、地位の先にあるもの
ビジネス牧師である中林義朗牧師は牧師になる前はビジネスマンで、若い頃から『人生とは自分の力で努力して、上を目指して死ぬ気で働き、成功を手にするのだ』と多くの先輩から教わり、その通り努力して働いていました。その結果、スピード出世を遂げ、多くの社員を持つトップの座に上り詰めました。
しかし、30歳を過ぎた頃から自分のやっていることに疑問を持ち始め、何の不自由もない生活を送っていたにもかかわらず、心が空っぽという空虚感があって、幸せや満足感を得ることができませんでした。結局、お金や名声や地位で心の中の隙間を埋めることができず、思い悩み続けることになりました。
ある日、彼が出張から家に帰り、寝室で着替えをしていると、足がベッドに当たった瞬間、一冊のゴワゴワになった聖書が転げ落ちました。そこで妻に「これは何だ」と聞くと、「あなたがあまりにも自己中心に飛び回っているから、私の祈りの涙と鼻水でこんなにゴワゴワになってしまったのよ」と言われました。
彼は人生の目的に思い悩んでいた時に妻の言葉を聞き、その場に崩れ落ち、涙を止めることができませんでした。妻がそこまで自分のために文句も言わずに、今まで黙って祈っていてくれたことに対して、中林氏は魂が震え、すぐさま回心したのでした。
その後、仕事を変え、洗礼を受け、神学校に行って牧師となって、新たにイエス様と再出発し、現在、中林牧師は「イエス様と出会って、今はとてもすっきりしています」と告白しています。
平安と喜びと幸福の源であるイエス・キリスト
『キリストに倣いて』という本に「誠の平安と喜びとは私(イエス・キリスト)においてのみ獲得される。…わたしがすべてをより頼む者を救う者であり、わたし以外に有用な助けも永続する慰めもない」と記されています。
内村鑑三氏も「人として生まれし最大名誉、最大幸福は、イエスを知り、彼に知られ、彼の友人となることである」と告白しています。
また今は亡き聖公会の小池俊男主教も「神によらないでは本当の平安はありません。だから、キリストを知り、キリストの内に入り、キリストに結びついて生きる時、絶対的慈しみと平安、生死を超えた安らかさ、喜びが与えられて来るものであります。これが主にあっての喜びであり、平安であります」と述べています(『主のみ顔を仰ぎ望む』。
パスカルにいたっては「イエス・キリストなしには、人間は悪徳と悲惨とのうちにいるほかはない。(中略)彼の内に、われわれのすべての徳とすべての幸福とがある。彼の外には、悪徳、悲惨、誤り、暗黒、死、絶望があるだけである」(『パンセ』とさえ言っています。
イエス・キリストに頼る先にあるもの
聖書においては、まず、イエス様は「あなたたちは、命を得るためにわたしのとこへ来ようとしない」(ヨハネ5:40)と嘆かれています。
そして、イエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない」(同上6:35)と語られています。
他の訳では「わたしのところに来る人は、二度と飢えることがありません。わたしを信じる人は、決して渇くことがありません」となっています。
さらにイエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ10:28)と私たちを招かれています。他の訳では「重い束縛を受けて、疲れはてている人たちよ。さあ、わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげましょう」となっています。
私たちは「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります」(ローマ10:11)(他の訳では「聖書は私たちに、『主キリストを信じる者は、決して失望させられることがない』と教えています」)というみ言葉を覚え、このコロナ禍の中で徹底的にイエス様に頼りきって、生きていきたいものです。
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