どう受け止めるかで幸・不幸が決まる
中国で獄中にいた二人のクリスチャン
中国のある教会の家の指導者は20年以上も獄中にいた時がありました。
彼はまぎれもなく、信仰の勇者でしたが、 ある時、不満が起こったと正直に告白しています。獄中生活では食べるものがなく、そこで自分の皮のベルトを食べて、何とか飢えをしのいで、生きていかなければならなかったからです。
そのような時に指導者は『かつて初代教会時代にはペテロは奇跡で獄中から救われたではないか、なのになぜ自分は助け出されないのか』という疑問がわき起こり、ついに不信仰に陥りました。
一方、もう一人の体の弱かったクリスチャン男性も収容されていましたが、不平を言わず、信仰を失わずにいました。
ある時、病弱の彼は母親からの差し入れの貴重で、大切だった粉ミルクをスプーンですくったかと思うと、「これは先生に」と言って、指導者の口の中に、断るのを押し切って、無理やり入れたそうです。
その時、指導者は『それはあなたの体を心配した母さんが送ってくれた大切なものではないか』と言おうと瞬間、極限状態の中でイエス・キリストの愛の御手を見た思いがして、目から涙があふれたのでした。
指導者はこれでも「私の愛がわからないのか」と言わんばかりの光景に触れ、「ここが神様の栄光を現すように定められた場所であるならば、私はここで神様に仕えます」との祈りをささげられるまでに変えられ、信仰を取り戻したのでした。
二人のサラリーマン
ある二人のサラリーマンがいました。別々の時期にタクシーの後部座席に乗っているところに、後ろから酒気帯び運転の車から追突され、二人とも全く同じようなむち打ち症にかかりました。
二人とも車の追突によって、入院していたことは同じなのですが、しかし、二人の入院生活、その後の経過が全く対照的でした。
一人は非常に大切な時期に入院しなければならなくなったことで、残念な気持ちと恨みつらみでいっぱいで、『訴えてやる』と怒り心頭だったようです。さらに3ケ月も入院をし、結局、職場復帰するのに1年かかり、その後もまだぐずぐずと言っているようです。
もう一人は『ぶつけられたのは仕方がない』と積極的に入院の機会を利用しようとしました。『サラリーマン生活で忙しく、ゆっくりと寝ている時間なんて一生に一度もないだろう』と思い、分厚い『三国志』の本を読むことに挑戦しようとしました。不思議なことに読んでいるうちに痛みが取れてきて、1週間で治ってしまいました。
また、入院した病院がキリスト教病院だったことで、聖書を読む機会に触れ、救われて、事故がきっかけでクリスチャンとなり、さらに牧師になるまでに至ったのでした。
聖書のみ言葉が持っている力
牧師までになった人は入院中に2つのみ言葉によって、救われたと告白しています。
一つは「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13)というみ言葉です。
もう一つは「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」(ローマ8:28)というみ言葉です。
このことから不幸や不都合の中でも聖書のみ言葉によって、慰められ、安らぎや勇気が与えられることが多くあり、聖書には絶大な力、人生を変える大きな力があると言えるでしょう。
どう受け止めるかで幸・不幸が決まる
現在、新型コロナウィルス感染拡大は歯止めがかからず、誰にとっても避けることはできない深刻的な状況を迎えています。
しかし、二人のサラリーマンの行動からわかる通り、どう対処するかで、その後の結果が違ってくるのではないでしょうか。
コロナ禍で幸せな生き方をする方法は第1に仕方がないとして現状を受容すること、第2にこの機会を積極的に利用(読書、祈り、黙想など)すること、第3に聖書のみ言葉に触れて、聖書を読み、聞いて、養われて、神様から力を頂くことと言えるのではないでしょうか。
私達は「起きたことを自分自身どう受け止めるかで、あなたは幸福にもなり、不幸にもなる」(鈴木秀子シスター)ことを覚えたいものです。
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