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2024年9月14日(土)瀬戸内伝道区信徒修養会 開催

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  瀬戸内伝道区信徒修養会    2024年9月14日(土)13時30分~15時まで、倉敷聖クリストファー教会にて、呉信愛教会の松本正俊司祭を講師、漫子夫人にオルガン演奏者として、主題「宣教としての礼拝音楽~ ” 神の民 ” による教会の(歌声)」( ” 聖餐式 ” を中心に)の講話をしていただきました。  第1部は松本正俊司祭の礼拝音楽の思いや祈祷書の解説、発声や所作、「教会の歌声」の実際の可能性と問題点などを話していただき、第2部は第1部を踏まえて、「まとめの礼拝」で締めくくっていただきま した。 講演会はとても実践的で、聖書の朗読、聖歌を歌う心構えを学び、有意義で充実した講演会となり、大好評でした。約20名参加。

「主なる神様こそ主役、主人公」「あの方は栄え」「私は傍役(わきやく)」ということを心がける

  「 私は傍役(わきやく) 」     今は亡き、カトリック教会作家の遠藤周作氏は人生の主役、 傍役 ( わきやく ) ( 脇役)について、以下のように述べています。 芝居には傍役というものがある。 傍役は言うまでもなく、主役のそばにいて主役のためにいる役である。 その勤めは主役と共に芝居の運行をつくっていくのだが、 また主役を補佐したり、主役をひきたてるためにもある。・・・ しかしなぜ私がこんなわかりきったことを書いたかというと、我々は我々自身の人生ではいつも主役のつもりでいるからだ。 たしかにどんな人だってその人の人生という舞台では主役である。 そして自分の人生に登場する他人はみなそれぞれの場所で自分の人生の傍役のつもりでいる。 だが胸に手をあてて 一寸 ( ちょっと ) 、考えてみると自分の人生では主役の我々も他人の人生では傍役になっている。・・・ だが人間、悲しいもので、このあたり前のことをつい忘れがちなものだ。 たとえば我々は自分の女房の人生のなかでは、傍役である身分を忘れて、まるで主役づらをして振舞ってはいないか。 以後、女房にムッとしたり腹がたつ時があっても、「この人のワキヤク、ワキヤク」と呪文(じゅもん)のように 呟 ( つぶや ) くことにしている。・・・ 夜、眠れぬ時死んだ友人たちの顔を思い出し、俺はあの男の人生で傍役だったんだな、と考え、いい傍役だったかどうかを考えたりする。 もちろん、女房の人生の傍役としても良かったか、どうかをぼんやり 思索 ( しさく ) もしてみる。   「主なる神様こそ主役、主人公」 聖書においては主役、主人公は「人間」ではなく、もちろん「主なる神」様であることを様々な言葉に変えて、表現されています。 「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」 (コロサ...