「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。…『主の御心であれば、生き永ら えて、あのことやこのことをしよう』」

     ズラータ・イヴァシコワさん

 

ズラータ・イヴァシコワさんは去年、16歳の高校生の時、愛する故郷ウク

ライナがロシアからの侵攻を受けたことによって、当たり前であった普通の

日常生活が突然奪われてしまうことになりました。


 不気味な空襲警報と爆撃音により、死と隣り合わせとなり、彼女は今日一日

の命があることの大切さを身をもって痛感したそうです。


 また彼女は当たり前にあったものが一瞬で消え失せてしまい、朝、目覚める

ことなど日常のどれもが、どれほどかけがえのないものだったか、どれほど素

敵で恵まれたものだったか、身に染みてわかったのでした。


現在、彼女は日本に避難して、「眠るときに『明日も目覚められるか』という

心配はしなくてもよく、当たり前の日々が、とてもありがたく、幸せなことに感

じられます。そもそも、生きていることそのものが『何ものにも代えがたい最大

の幸せ』なのです」と語っています。

 

「身に迫った『死』を前にして」

 

第二次世界大戦中に一人のドイツ人小学生が汽車に乗っての下校途中、敵の

戦闘機の空襲があり、彼は車外に飛び出して、近くの森を目指して必死に走

りましたが、半分も行かないうちに森にたどり着くのは無理だと思って、地

面に身を投げ出しました。


その時、機銃の音が近くで鳴り、彼の右耳を弾丸がかすめていき、もう1発

は心臓からほんの数センチ脇の土にめり込んでいき、彼は必死で逃げ、気力

を振り絞って、何とか森までたどり着き、そのまま力尽きて倒れ込んでしま

いました。


危険が去り、地面から起き上がると、以前には感じたことのない生きる喜び

を強く感じ、森の緑、鳥たちのさえずり、遠く青空に映える教会の尖塔(せんとう)、全

てが、初めて接した物のように、新鮮な感動にあふれていました。


彼は死の淵のほんのすぐ手前に立たされたことにより、濃密な「生」の充足

感を味わい、「生」の持つ意味をもまた強烈に意識するようになりました。


彼の名前は「死生学」大家のアルフォンソ・デーケン神父でそれ以来、いつ

も一日の初めに、神がこの日も命の贈り物を与えてくださったことに対し

て、感謝の祈りをささげることが習慣になりました。

 

「生きて、明日の朝も目覚めたら感謝、幸せ」

 

私たちは普通に「生きて」「明日も目覚める」ということが当たり前となっ

ていますが、しかし、戦禍(せんか)の最中にいる人や持病を持つ方にとって、朝に

「目が覚める」ことは決して当たり前ではないと言えるのではないでしょう

か。


事実、病気や疾患(しっかん)などにより、睡眠中に突然死して、無事に朝を(むか)えられな

い人が少なからず存在することがわかっています。


このような現実から「朝、目が覚めたら感謝する。今日という日を精一杯生

きるチャンスいただき、ありがとうございます。今朝も生かされて目が覚めたか

ら感謝」(順天堂大学医学部教授・小林弘幸氏)、朝、目覚めると、『あ

あ、今日という新たな一日を、生きて迎えることができた。ありがたいな。幸せ

だな』と、幸福感に満たされる」(ある病床にある方)という気持ちになるの

ではないでしょうか。

 

「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」

 

聖書では「主なる神は、土(アダマ)の(ちり)で人(アダム)を形づくり、その

鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記

2:7)と記されています。


また「私たちが(ほろ)びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽

きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22~23 新改訳)と

記され、神様から「命」を与えられているからこそ「朝、目覚め」ることが

できるのです。


私たちは「朝ごとに」「主の恵みに」よって、「命の息を吹き入れられ」

生かされて」いることを魂に(きざ)み込み、「あなたがたには自分の命がどう

なるか、明日のことは分からないのです。…『主の御心であれば、生き永ら

えて、あのことやこのことをしよう』」(ヤコブ4:14,15) という

決意の下で、今後、「生き」ていきたいものです。

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