コロナ禍(か)の中で「喜び」を探す
『少女ポリアンナ(パレアナ)』
先月号では悲しい時、辛い時や苦しい時などがあった時、「喜び」の実践方法を述べましたが、今月も『少女ポリアンナ(パレアナ)』の話から「喜び」の実践を学んでみたいと思います。
アメリカ人の少女ポリアンナは4歳だった時に母を亡くすという不幸な経験をしますが、しかし、父親のジョン牧師からどんな困難や逆境、苦しいことがあっても喜びを見つけ出す『「喜び」(または「幸せ」、「うれしい」)探しゲーム』(または「遊び」)を教わることで、前向きに明るく、生きていくことになりました。
そのゲームをするきっかけになったのは、彼女が欲しかった人形が慈善団体から届けられず、松葉杖が届いたことでした。彼女はがっかりし、大変、悲しくなりましたが、お父さんから「松葉杖がいらないことはうれしいこと」だと説明され、彼女は松葉杖を使わなくてよい健康的な体であり、幸せなこととして捉え直したのでした。
その時からポリアンナは孤独な高齢者が足を折った時には、「二本でなかったのをうれしく思わないと」と言って励まし、また、毎日寝たきりの夫人に対しては「手を使えることはうれしいこと」と語って勇気づけました。その夫人は『なんで自分はこれまで手を使って何もやって来なかったのだろう』と考え、編み物をすることや手を使えることのありがたさに気づき、生きることが楽しくなったのでした。
八百ある喜びの聖句からの慰め
ポリアンナに『「喜び」探しゲーム』を教えたお父さんのジョン牧師は苦しいことや悲しいことが全くなかったということではなく、時には気持ちが沈んだ時もありました。ジョン牧師はそこで聖書の中の「喜びの聖句」を数えることにしました。すると聖書の中に「八百」「喜びの聖句」があって、牧師はその聖句を数え始めたその日から、気分がすっきりして、大きな慰めを得るという結果になりました。
その経験からジョン牧師はポリアンナに対して、「もしも神様がわざわざ八百回もかけて、人間に喜びなさい、楽しみなさいと、お伝えになったのなら、少なくとも時々はそうするように望まれたに違いない」と力説しました。
「聖書の喜び」
「八百」ある聖書の「喜び」については、「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサ5:16)、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)というみ言葉が有名です。また「苦しみの中」での「喜び」の聖句としては、「どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」(Ⅱコリント7:4)、「患難をも喜んでいます」(ローマ5:3 口語訳)、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)というみ言葉があります。
「ポリアンナ的考え方」
今は亡き三浦綾子さんは、北海道の旭川で住んでいる時、二十日間連続して雨が降りました。彼女の友人の「感謝婦人」と呼ばれる女性はさすがにこの状況を感謝できないと考えていたら、「感謝婦人」は「この長雨を、もし一日で降らせたならば、川が氾濫したりして、多くの人が困ったでしょうね。限りなく優しい神様は、この長雨を二十日に分けて降らせてくださったのですね。ありがたいことですね。神様に感謝ですね」と語り、綾子さんは心を打たれたそうです。この考え方は正に『「喜び」「幸せ」「うれしい」探しゲーム』を実践した「ポリアンナ的考え方」と言えるのではないでしょうか。
コロナ禍(か)の中で「喜び」を探す
コロナ禍の中で私たちは「喜ぶ」ことを探すことは難しいかもしれません。しかし、ポリアンナやジョン牧師のように、『喜び探し』を習慣づけていくと、「喜び」(「幸せ」「うれしい」)ことが見つかるのではないでしょうか。
ポリアンナは「目がどれくらい役に立つか、…気がついた」「きれいなものを見られる目があるのが、うれしくてたまらない」「手を使えることはうれしいこと」「ただ歩くだけで、すばらしいと思う」「今朝、生きてるというだけでほんとにうれしい」と言い、また「自分は耳が聞こえると思ったらうれしい」という人の言葉を伝えています。
コロナ禍の中であっても、そのようにポリアンナが言うことは、今、生きている私たちにとっても「喜び」「幸せ」「うれしい」ことと言えるのではないでしょうか。
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