2022年1月23日(日) 自宅での祈り 顕現後第3主日 特祷・聖書日課 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 23, 2022 毎日曜日の自宅での祈り◎日曜日はご自宅で自粛されて、式文「自宅での祈り」「聖書日課」を用い、礼拝時にお祈りをささげましょう。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
2024年3月 礼拝案内 3月 01, 2024 2024年3月 礼拝案内 ◎ 3月3 日(日)10時半 聖餐式 (せいさんしき) 坪井智司祭 司式・説教 ◎ 3月10日(日)10時半 み言葉の礼拝 信徒の礼拝 ◎ 3月17日(日)1 0時半 聖餐式 (せいさんしき ) 平野一郎司祭 司式・説教 礼拝後、 教会委員会 ◎ 3月24日(日)10時半 み言葉の礼拝 信徒の礼拝 ◎ 3月31日(日)10時半 聖餐式 (せいさんしき) 復活日(イースター) 司式・説教 平野一郎司祭 礼拝後、祝会(会食) 続きを読む
「最も必要とされているものは何か」 「主なる神様こそ希望」 8月 09, 2024 「 最も必要とされているものは何か」 ラジオ牧師として活躍した 川越勝牧師がフィリピンの大学院で勉強をしていた時、宣教師が体験談から話された話は忘れられず、その後の川越牧師にとって非常に大切な点を教えてもらった契機になったそうです。 ある時、アジアのある国の難民キャンプで長い間働いている宣教師が川越勝牧師の学んでいる大学院に来て、その宣教師はほとんどの(牧師である)学生に向かって、 「今、難民キャンプで最も必要とされているものは何か?」 という質問をしました。 川越勝牧師も心の中で、 「難民キャンプだから、安全な住まいなのか?いや、毎日の食事だろうか?それとも、手に入れにくい医薬品だろうか?温かい毛布だろうか?それともお金?」 といろいろと考えました。 川越牧師はこれだけ挙げればどれか当たるだろうと思っていたのですが、見事にはずれ、最も必要とされるものは 「希望」 だったそうです。 難民キャンプ生活という 「希望」 のない日々は、人々から笑顔を奪ってしまい、彼らは誰に会っても笑わず、宣教師はその体験から、希望の必要を切々と訴えたそうです。 そこで川越勝牧師は 「これから先自分がどうなるのかわからず、十分な物がない生活では、希望が持てないのでしょう。その難民キャンプの話をうかがって、笑顔の大切さ、それに大きく関係する希望の大切さをハッキリ知ることができました」 と述べています。 「『希望』のない日々は、人々から笑顔を奪ってしま」 というように、 「希望」 と 「笑顔」 は直結していることがわかります。 川越勝牧師は 「さて、あなたの生活には笑顔があるでしょうか。ただ単にニコニコしているだけではなく、目が輝いた、希望を持った笑顔でしょうか」 と問われています。 私たちの生活はどうでしょうか。希望を持った生活、 「目が輝いた、希望を持った笑顔」 で生活をしているでしょうか。 「主なる神様こそ希望」 聖書において、 「希望」 を置いている対象は 「もの」や「人」ではなく、「主なる神」様である としています。 「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおい ている」 (詩編62:6)、 「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは 若いときからあなたに 依 よ り頼... 続きを読む
「ドアが閉じる時、もう一つのドアが開く」「戸を閉ざされた」後に神様の「救い」が始まる 1月 17, 2025 「神様はドアを閉めたとしても 」 有名な映画 「サウンド・オブ・ミュージック」 に 修道女を目指していた マリアが登場します。 マリアは自由 奔放 ( ほんぽう ) な性格のために修道院長から一度修道院を去って、自分自身を見つめ直すことを勧められますが、しかし、マリアは「修道院こそが私の居場所です」と最初は 拒 ( こば ) みます。 結局、修道院長からトラップ大佐の 邸宅 ( ていたく ) で家庭教師をすることを命じられ、彼女は悩みながらもトラップ大佐の家へ向かうことになりました。 修道院を出る前にマリアは 「神様はドアを閉めたとしても、必ずどこかの窓を開けておいてくださる」 (「 When the Lord closes a door, somewhere he opens a window. 」 吹き替えでは 「道はきっとどこかに通じるわ」 となっていて、また他の映画訳で 「神様は耐えられない 試練 ( しれん ) は与えない」 と訳されている)と自分自身に言い聞かせました。 その後、マリアはトラップ大佐宅で家庭教師を送る中で 紆余曲折 ( うよきょくせつ ) がありながらも、最終的にトラップ家と共に成長していき、 皆が幸せな生活を送ることになって、正に 「神がドアを閉める時、神は窓を開ける」 (『ブラジルのことわざ』)ということが実現したのです。 「ドアが閉じる時、もう一つのドアが開く」 同じように科学者で電話機の発明者のグラハム・ベルも 「扉が一つ閉まると必ず別の扉が開くのです。ただ、閉まった扉をいつまでも悔しそうに見つめていて、開いた扉に気づかない、そういう人が多いのです」 と語っています。 ヘレン・ケラーも 「一つの幸せのドアが閉じる時、もう一つのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない」 という言葉を残しています。 英国の殉教者のジョン・ブラッドフォードはリュウマチを 患 ( わずら ) い、失望落胆していました。しかし、悪臭のする、汚い地下 牢 ( ろう ) に投げ込まれ、そこから生きて出てくることが出来ないとわかったとき、 「私がこの 牢 ( ろう ) に閉じ込められ、試練を耐えて以来ずっと、リュウマチの痛みもなく... 続きを読む
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