神様になおも望みを抱いた先には
先が見えない世の中
新型コロナウィルスは強い変異ウィルス(デルタ株)に変わりつつあり、従来株の抑え込みに成功してきた国々でも猛威を振るい、世界中にじわじわと拡大しています。
ワクチン接種が浸透しつつも、現実的には先が見えず、見通しが立たない状況が続いていると言えるのではないでしょうか。
先が見えない作業
1942年、オーストリアでナチスに拘束された精神科医のヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツの強制収容所に送られました。
彼と共に収容された人々は、強制収容所で何もない空地へ連れて行かれ、午前中に只、ひたすら大きな穴を掘るように命令され、午後にはその苦労してようやく掘った穴を埋めるというような、何ら生産性のない作業を命じられました。
作業させられた多くの人はそのような生産性のない作業だったために、先が見えず、希望や目的が見出せず、病気で倒れる人やまた絶望して、命を絶った人も多くいたそうです。
信仰の父アブラハム
信仰の父と言われるアブラハムは、年齢が100歳近くで、妻のサラも90歳近い時に、神様は二人に対して、あなたの子孫は星の数ほど多くなると約束されました。
アブラハムは現実的に子孫を残せる見込みは全くなく、彼にとって神様の言われたことは非現実的でしたが、しかし、「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じた」(ローマ4:18)のでした。別の訳では「彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました」(聖書協会共同訳)となっています。
アブラハムにとって先が全く見えず、見通しがつかず、普通の人ならあきらめ、落胆し、絶望するしかなかったのですが、彼はそれでもなお神様に望みを置いて、信じ切ったのです。
この結果、アブラハムは「諸国民の父」(創世記17:6)となり、「ますます繁栄」(同上)し、彼の「受ける報いは非常に大きい」(同15:1)ものとなりました。他の訳では「アブラムよ、心配することはない。わたしがあなたを守り、大いに祝福しよう」(同15:1)となっています。
「にもかかわらず」神様を信じ切る
元ルーテル学院大学教授の加来周一牧師は教会の礼拝が終わり、ぞろぞろ人が帰り始めた頃、一人の人がつかつかとやって来て、「先生、今日は有難うございました。説教の中で三回も『にもかかわらず』という言葉をおっしやいましたが、私はその言葉で救われました」とお礼を言われたそうです。
牧師が事情を聞いてみると、経営している会社が負債をかかえて倒産して、今日どうしたものか、これからどうなるものかと考えあぐねて礼拝に出席したということでした。
その説教の中で「にもかかわらず」という言葉が三回も繰り返され、それを反芻しているうちに、「にもかかわらず」自分は神の恵みの中にあるのだと示され、生きる希望がわいて来たと言うのです。
その後、その人は再起し、会社も立派に再興したのでした。
このことは正に上述の「希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じた」という聖書の個所と重なり、そのような信仰は絶望から希望へと転換すると言えるのではないでしょうか。
神様になおも望みを抱いた先には
私達も現実を生きる中で、コロナ禍の中で様々な問題・困難にぶつかり、先が見えず、出口や終わりの見えない状況が続き、絶望する時があります。
しかし、私達も「希望するすべもなかった時に、なおも(神様に)望みを抱いて、信じ」るならば、困難・苦境「にもかからず」神様の「祝福」「繁栄」があって、状況が好転し、先が見え、出口や終わりの見える状況になるのではないでしょうか。
私たちは人や他のものに希望を置くのではなく、神様だけに望みを抱くならば、その先には「大いなる光を見…光が輝いた」(イザヤ9:1)未来が待っていることを覚えたいものです。
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