「人が通らなければならない道」「天国への道」

 人が通らなければならない道

 

人が必ず、通らなければならない道は生まれること、死ぬことの2つと言えることができるのではないかと思います。

またそのこと以外でも、長い人生を送る中で、人が通らなければならない道は、苦難の道・十字架の道と言えるのではないでしょうか。

 

  

 

相田みつを氏の「道」という詩があります。

 

長い人生にはなあ

どんなに避けようとしても

どうしても通らなければ

ならぬ道 というものがあるんだな

そんなときはその道を

黙って歩くことだな

愚痴や弱音を吐かないでな

黙って歩くんだよ

ただ黙って

涙なんか見せちゃダメだぜ

そしてなあ その時なんだよ

人間としての

いのちの根が

ふかくなるのは

 

「どんなに避けようとしてもどうしても通らなければならぬ道」というのは苦難・十字架の道、茨の道とも言えることができ、その道は具体的には肉体的・精神的な痛み、病気、患い、傷、また人から受けるものとして、無理解、陰口、悪口、批判、憎悪、侮辱、屈辱、蔑視、裏切り、陰謀、排斥などと言えるでしょう。

 また神様からの試練としては、神様への祈りに対する沈黙、生活上で神様不在と感じる苦しみや孤独などと言えるでしょう。

 

イエス様がすでに通った道

      

私達が通った道はもうすでに救い主イエス様が通られています。

 そのことについては彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ5:1)という病や痛み、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」(ヨハネ13:9)という弟子の無理解、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(ルカ7:28)という中傷、陰口・悪口、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」 (ルカ15:2)という批判・非難などが挙げられます。

またイエス様は人から憎悪、侮辱、屈辱、蔑視、裏切り、陰謀、排斥を受け、さらにそれ以上の艱難も経験され、また神様の祈りに対する沈黙、神様不在と感じる苦しみや孤独などを体験されたことは新約聖書で詳しく記されています。

 

天国への階段を上っている

 

イエス様が通られた道を私たちも通らなければならない理由は何でしょうか。

それについては、イエス様の語られる「わたしは道で…わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)というみ言葉が一つの答えとして示されているのではないでしょうか。

この意味は「わたし(イエス様)を経由しないでは」「父のみもとには行けない」ということ、つまり、逆に言うとイエス様を通して、イエス様を経由して、父なる神様のもとに行くことができる、また天国に入れていただくということなのです。

さらに別の解釈をするとイエス様の道、イエス様が地上で歩まれような道を通らなければ、誰も父なる神様の元、つまり、天国に行くことができない。そのためにイエス様がたどられた道を私たちが通らなければならないと考えることができます。

私達がイエス様のたどられた道を通っていくとすれば、それは正にイエス様の通られた道の途上にあるということでき、それは、つまり、天国への階段に一歩一歩、上っているということになるのではないでしょうか。

私達はイエス様の通られ、たどられた道を一歩一歩進み、天国への階段に一歩一歩、近づいていきたいと思います。

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