これもいつかは過ぎていく 1939年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、ナチスの占領下に置かれたポーランドのジャルキでは男性は強制労働を強いられ、ドイツ兵による略奪と殺戮が横行していました。 その翌年1940年の5月にマイケル・ボーンスタインはジャルキの町に生まれました。戦況が悪化するにつれ、ナチスによるユダヤ人への迫害は激化し、ついにマイケルの家族のボーンスタイン一家もアウシュヴィッツに移送されることになりました。 ボーンスタイン一家はすし詰めの列車でアウシュヴィッツに運ばれた後、看守の手によって家族は離ればなれになり、マイケルの父イズラエルは毎日12時間も働かされ、さらに理不尽な暴力を受けました。 マイケル自身は一人だけ、子どもだけを集められた棟に収容され、さらにひどいことには彼の腕に囚人番号「 B ―1148」の入れ墨をされ、あまりの痛さに泣き叫びました。食事については小さなパンのかけらとほんの少しのマーガリンと灰色のすさまじく、まずいスープのみで、その少量の食べ物さえ、年上の子に奪われ、みるみる痩せ細っていくことになりました。 悲惨なことには収容所で子どもたちが看守に「ママやパパに会いたい子はいるか」と聞かれて手をあげると、ヨーゼフ・メンゲレの人体実験に連れて行かれてしまうという恐ろしい現実がありました。 しかし、マイケルはアウシュヴィッツ内にい た 母親が救い出し、母親たちの部屋にかくまわれたことで 生き延びられ、加えてマイケルさんの両親の口癖だった「これもいつかは過ぎていく」という言葉が支えとなり、常に前を向いて、耐え抜くことができたのでした。 やまない雨はない 今は亡き、元NHK解説委員で気象キャスター・エッセイストだった倉嶋厚は長年連れ添っていた伴侶の死によって、深い悲しみの底に沈み、そこから徐々に精神的には喪失感、不安、後悔、罪悪感、うつ病という反応が起こり、肉体的にも体重が減り、終わりのないような絶望感に襲われたことがありました。 しかし、倉嶋氏を襲った終わりの無いように見える出来事も周りの人々の協力や時間とともに解決し、後に彼は過去の体験を次のように述懐しています。 「私の命を吹き飛ばすほどの勢いで襲ってきた突風はいつの間にやら、通...